内丹(ないたん) · 道教(どうきょう)における
精(せい)、気(き)、神(しん)
内丹(ないたん) · 「内(うち)の丹(たん)」 · 自(みずか)らの身体(からだ)の中(なか)で在(あ)るものを成(な)り得(え)るものへと変容(へんよう)させる。錬丹(れんたん)の式(しき)——精(せい)から気(き)へ、気(き)から神(しん)へ、再(ふたた)び虚(きょ)へ。

西洋(せいよう)の文化史(ぶんかし)には外(そと)の錬金術(れんきんじゅつ)がございました——蒸留器(じょうりゅうき)の中(なか)で鉛(なまり)を金(きん)に変(か)える試(こころ)み。道教(どうきょう)には並行(へいこう)する伝統(でんとう)がございますが、より永(なが)く生(い)き、別(べつ)の方向(ほうこう)に発展(はってん)しました。それが内丹(ないたん)(內丹)、「内(うち)の錬丹(れんたん)」でございます。金属(きんぞく)を変容(へんよう)させるのではなく、自(みずか)らの身体(からだ)・心(こころ)を変容(へんよう)させる。蒸留器(じょうりゅうき)は人間(にんげん)自身(じしん)。最終(さいしゅう)に生(う)まれる「金(きん)」は金属(きんぞく)ではなく、通常(つうじょう)の範疇(はんちゅう)で捉(とら)え得(え)ぬ在(あ)り方(かた)でございます。
本記事(ほんきじ)は道教(どうきょう)総覧(そうらん)「道教(どうきょう)のシャーマニズム · 巫(ふ)、内丹(ないたん)、仙人(せんにん)」のあるテーマを掘(ほ)り下(さ)げます。
淵源(えんげん)について一言(ひとこと) · 内丹(ないたん)は仏教(ぶっきょう)瞑想(めいそう)ではない。道教(どうきょう)の山岳(さんがく)実践(じっせん)から育(そだ)ち、シャーマニズム的(てき)な巫(ふ)の層(そう)に遡(さかのぼ)ります。系譜(けいふ)は仏教(ぶっきょう)が中国(ちゅうごく)に到来(とうらい)するより古(ふる)い。
三(みっ)つの宝(たから) · 三宝(さんぼう)
内丹(ないたん)業(わざ)は身体(からだ)・心(こころ)系(けい)に在(あ)る三(みっ)つの質(しつ)を巡(めぐ)ります。三宝(さんぼう)と呼(よ)ばれます——「三(みっ)つの宝(たから)」。
精(せい) · エッセンス
精(せい)(精)は最(もっと)も密(みつ)で身体(からだ)に近(ちか)い力(ちから)。遺伝(いでん)、性的(せいてき)な力(ちから)、身体的(しんたいてき)実体(じったい)に関(かか)わる。生(う)まれながらに持(も)つ精(せい)は元精(げんせい)と呼(よ)ばれ——与(あた)えられたもの、限(かぎ)りあり、生涯(しょうがい)で使(つか)い果(は)たされてゆく。食(しょく)と呼吸(こきゅう)で築(きず)かれる精(せい)は後天精(こうてんせい)と呼(よ)ばれ——利用(りよう)可能(かのう)であるが、養(やしな)わねばならない。
内丹(ないたん)業(わざ)はまず精(せい)を保(たも)つこと(消費(しょうひ)せぬこと)と集(あつ)めること(特定(とくてい)の業(わざ)を通(とお)して)から始(はじ)まります。伝統的(でんとうてき)な手引(てび)き——節度(せつど)ある性(せい)の業(わざ)、規則的(きそくてき)な睡眠(すいみん)、精(せい)を支(ささ)える食(しょく)。
気(き) · 生命力(せいめいりょく)
気(き)(氣)は動(うご)き、循環(じゅんかん)する力(ちから)。身体(からだ)の経絡(けいらく)を流(なが)れる。臓器(ぞうき)を働(はたら)かせ、思(おも)いを担(にな)い、感情(かんじょう)を動(うご)かすエネルギー。シャーマニズム的(てき)武術(ぶじゅつ)におけるエネルギーもご覧(らん)ください。
内丹(ないたん)においては精(せい)が特定(とくてい)の瞑想的(めいそうてき)・身体的(しんたいてき)技法(ぎほう)を通(とお)して気(き)へと精製(せいせい)されます。抽象的(ちゅうしょうてき)に聞(き)こえるが体験(たいけん)し得(え)るもの。呼吸(こきゅう)、動(うご)き、注意(ちゅうい)と共(とも)に長(なが)く業(わざ)を行(おこな)う実践者(じっせんしゃ)は、月日(つきひ)を経(へ)て体系(たいけい)が「軽(かろ)く」なるのを感(かん)じ取(と)ります——密(みつ)に、精緻(せいち)に、温(あたた)かく。これが第一(だいいち)の錬丹(れんたん)的(てき)変容(へんよう) · 精(せい)が気(き)になる。
神(しん) · 精神(せいしん)
神(しん)(神)は心(こころ)に近(ちか)い、意識(いしき)に近(ちか)い力(ちから)。覚(さ)めた人(ひと)の眼(まなこ)に輝(かがや)くもの。純粋(じゅんすい)な気付(きづ)きの質(しつ)。神(しん)の字(じ)は「神(かみ)」の意(い)も担(にな)い——神聖(しんせい)なる存在(そんざい)が人間(にんげん)世界(せかい)に作用(さよう)する力(ちから)でございます。
第二(だいに)の錬丹(れんたん)的(てき)変容(へんよう) · 気(き)が神(しん)になる。これはより精妙(せいみょう)で、年月(ねんげつ)を要(よう)します。気(き)を神(しん)に精製(せいせい)する実践者(じっせんしゃ)は、周囲(しゅうい)にとって明(あき)らかに異(こと)なる者(もの)となる——澄(す)んで、静(しず)かで、より臨在(りんざい)している。精(せい)の密(みつ)が透明(とうめい)になる。残(のこ)るのは、もはや騒(さわ)がしさを要(よう)せぬある種(しゅ)の臨在(りんざい)でございます。
内丹(ないたん)の式(しき)は理論(りろん)ではない。業(わざ)の指針(ししん)である。数十年(すうじゅうねん)これに従(したが)う者(もの)は別(べつ)の人間(にんげん)となる。これを読(よ)んで理解(りかい)する者(もの)はまだ同(おな)じである。
第四(だいし)の段階(だんかい) · 虚(きょ)への還(かえ)り
古典(こてん)的(てき)な内丹(ないたん)の式(しき)は四段階(よんだんかい)を持(も)ち、三(さん)ではございません。最終(さいしゅう)段階(だんかい)はこう申(もう)します。
煉神還虚(れんしんかんきょ)——「神(しん)は虚(きょ)へと還(かえ)る」
最(もっと)も明(あ)き意識(いしき)のエネルギーは自(みずか)らの目的(もくてき)とはならず、根源(こんげん)的(てき)なものへと流(なが)れ戻(もど)ります。この段階(だんかい)に至(いた)る実践者(じっせんしゃ)はもはや主(おも)に自身(じしん)に在(あ)るのではない。道教(どうきょう)の言葉(ことば)で申(もう)せば——道(どう)のために空(から)になったのです。
これが内丹(ないたん)業(わざ)が宗教的(しゅうきょうてき)神秘(しんぴ)の境(さかい)を越(こ)える点(てん)。ここで実践者(じっせんしゃ)は仙(せん)——不死(ふし)の一人(ひとり)になりつつあります。八仙(はっせん)もご参照(さんしょう)ください。
中核(ちゅうかく)の業(わざ)
- 坐忘(ざぼう) · 「坐(ざ)して忘(わす)れる」 · 思(おも)いとの同一化(どういつか)を手放(てばな)す瞑想的(めいそうてき)技法(ぎほう)
- 小周天(しょうしゅうてん) · 「小(しょう)の天(あめ)の巡(めぐ)り」 · 二経絡(にけいらく)に沿(そ)った微小宇宙(びしょううちゅう)的(てき)気(き)の循環(じゅんかん)
- 大周天(だいしゅうてん) · 「大(だい)の天(あめ)の巡(めぐ)り」 · 拡(ひろ)げられた気(き)の循環(じゅんかん)
- 推拿(すいな)と導引(どういん) · 気(き)を導(みちび)く身体(からだ)的(てき)業(わざ)
- 站樁(たんとう) · 「柱(はしら)立(た)ち」 · 気(き)を集(あつ)める静的(せいてき)姿勢(しせい)業(わざ)
- 意識的(いしきてき)呼吸(こきゅう) · とくに逆(ぎゃく)腹式呼吸(ふくしきこきゅう)
- 観想(かんそう) · 特定(とくてい)のエネルギーを活性化(かっせいか)させる内(うち)なる像(ぞう)
これらの技法(ぎほう)は無作為(むさくい)の集合(しゅうごう)ではない。互(たが)いに積(つ)み上(あ)がり、伝統的(でんとうてき)には師(し)から後継者(こうけいしゃ)へと系譜(けいふ)の中(なか)で伝(つた)えられます。現代(げんだい)の瞑想(めいそう)形式(けいしき)はしばしば表面(ひょうめん)を掻(か)くだけに留(とど)まります。
シャーマニズム的(てき)次元(じげん)
何(なに)が内丹(ないたん)をシャーマニズム業(わざ)たらしめるのか。一見(いっけん)、シャーマニズム的(てき)特徴(とくちょう)のない身体(からだ)瞑想(めいそう)に見(み)えます。二度目(にどめ)の一瞥(いちべつ)で明(あき)らかとなる——内丹(ないたん)は霊(れい)業(わざ)と深(ふか)く織(お)り合(あ)わされている。ある局面(きょくめん)では実践者(じっせんしゃ)は内(うち)なる姿(すがた)に出会(であ)う——次(つぎ)の歩(あゆ)みを導(みちび)く存在(そんざい)たち。これらの姿(すがた)は伝統的(でんとうてき)に霊的(れいてき)伴(ともな)い手(て)として認(みと)められます。実践者(じっせんしゃ)は一人(ひとり)で業(わざ)を行(おこな)うのではなく、自(みずか)らの体系(たいけい)に現(あらわ)れる霊的(れいてき)存在(そんざい)の共同体(きょうどうたい)と共(とも)に業(わざ)を行(おこな)っているのでございます。
これが内丹(ないたん)が古典的(こてんてき)シャーマニズム業(わざ)との境(さかい)を失(うしな)う瞬間(しゅんかん)。内(うち)なる世界(せかい)で十分(じゅうぶん)長(なが)く業(わざ)を行(おこな)う者(もの)は気付(きづ)く——内(うち)なる世界(せかい)は私的(してき)ではない。固有(こゆう)の存在(そんざい)を持(も)つ者(もの)たちに住(す)まわれている。
現代(げんだい)実践(じっせん)における内丹(ないたん)
今日(こんにち)、内丹(ないたん)は中国(ちゅうごく)において個別(こべつ)の師(し)により、しばしば閉関(へいかん)的(てき)な退修(たいしゅう)の中(なか)で伝(つた)えられます。西洋(せいよう)では接近(せっきん)がより難(むずか)しい。多(おお)くの西洋(せいよう)の気功(きこう)提供(ていきょう)は内丹(ないたん)的(てき)要素(ようそ)を含(ふく)みますが、しばしば希薄(きはく)になっております。真(まこと)の伝授(でんじゅ)を伴(ともな)う古典(こてん)的(てき)で数十年(すうじゅうねん)に及(およ)ぶ業(わざ)は中国(ちゅうごく)以外(いがい)では稀(まれ)です。
当方(とうほう)では内丹(ないたん)を独立(どくりつ)した流派(りゅうは)としては教(おし)えません。けれども基本(きほん)的(てき)諸要素(しょようそ)——丹田(たんでん)と共(とも)にある業(わざ)、站樁(たんとう)、意識的(いしきてき)呼吸(こきゅう)、三宝(さんぼう)への瞑想(めいそう)——は奥儀(おうぎ)の道(みち)の文脈(ぶんみゃく)で紹介(しょうかい)されます。
三宝(さんぼう)の業(わざ)
内丹(ないたん)の諸要素(しょようそ)は狼(おおかみ)シャーマンの奥儀(おうぎ)の道(みち)の道教(どうきょう)的(てき)流(なが)れの業(わざ)に流(なが)れ込(こ)みます。