八仙(はっせん) · 道教(どうきょう)の
八人(はちにん)の不死(ふし)
山(やま)に入(い)って戻(もど)らなかった八人(はちにん) · あるいは別(べつ)の姿(すがた)で戻(もど)った八人(はちにん) · 八仙(はっせん)は人(ひと)の実践(じっせん)が至(いた)り得(え)るものの道教(どうきょう)的(てき)像(ぞう)でございます。

中国(ちゅうごく)の茶館(さかん)、多(おお)くの家庭(かてい)、陶磁器(とうじき)、壁画(へきが)においてその姿(すがた)に出会(であ)います——八(はち)つの姿(すがた)が共(とも)に立(た)ち、それぞれ手(て)に特別(とくべつ)な物(もの)を持(も)つ。扇(おうぎ)、笛(ふえ)、剣(けん)、瓶(かめ)、花(はな)。八仙(はっせん)(八仙)、すなわち「八人(はちにん)の不死(ふし)」でございます。古典的(こてんてき)な意味(いみ)での神(かみ)ではなく、道教(どうきょう)の実践(じっせん)を通(とお)って、通常(つうじょう)の生(いのち)と死(し)に従(したが)わぬ在(あ)り方(かた)へと移(うつ)った人々(ひとびと)です。
本記事(ほんきじ)は道教(どうきょう)総覧(そうらん)「道教(どうきょう)のシャーマニズム · 巫(ふ)、内丹(ないたん)、仙人(せんにん)」のあるテーマを掘(ほ)り下(さ)げます。
淵源(えんげん)について一言(ひとこと) · 道教(どうきょう)実践(じっせん)は仏教(ぶっきょう)のみから降(くだ)ったものではありません。シャーマニズム的(てき)道教(どうきょう)、山岳(さんがく)シャーマニズム、古代(こだい)中国(ちゅうごく)の巫(ふ)シャーマンの古層(こそう)に根(ね)を持(も)ちます。
仙(せん)とは何(なに)か
仙(仙)の語(ご)は「人(ひと)」と「山(やま)」の二要素(にようそ)から成(な)ります。仙(せん)とは文字通(もじどお)り「山(やま)の人(ひと)」——山(やま)に入(い)り、そこで実践(じっせん)を通(とお)して、町(まち)の人々(ひとびと)には馴染(なじ)まぬ在(あ)り方(かた)に至(いた)った者(もの)。仙(せん)は時(とき)に身体的(しんたいてき)意味(いみ)で不死(ふし)と描(えが)かれ——数百年(すうひゃくねん)生(い)きる。時(とき)に霊(れい)的(てき)意味(いみ)で不死(ふし)——生(いのち)と死(し)の輪(わ)に縛(しば)られぬ存在(そんざい)。
確(たし)かなのは、仙(せん)が自(みずか)らの身体(からだ)、呼吸(こきゅう)、気(き)を統(おさ)める力(ちから)を尋常(じんじょう)ならざる仕方(しかた)で養(やしな)っていたこと。深(ふか)い瞑想(めいそう)に沈(しず)み、奇(くす)しき業(わざ)を為(な)し、他(た)の存在(そんざい)と交(かよ)い得(え)ます。すべての内丹(ないたん)業(わざ)が指(さ)し示(しめ)す消失点(しょうしつてん)でございます。内丹(ないたん) · 精(せい)、気(き)、神(しん)もご覧(らん)ください。
八(はち)つの姿(すがた)
どの八人(はちにん)か。伝承(でんしょう)によって僅(わず)かに異(こと)なりますが、次(つぎ)の版(はん)が最(もっと)も広(ひろ)く知(し)られます。
鍾離権(しょうりけん)
最年長(さいねんちょう)。前漢(ぜんかん)の元(もと)武将(ぶしょう)で、敗戦(はいせん)の後(のち)に山(やま)に入(い)り、そこで錬丹(れんたん)の秘奥(ひおう)を見出(みいだ)した者(もの)。死者(ししゃ)を蘇生(そせい)させ得(え)る扇(おうぎ)を手(て)に持(も)ちます。
呂洞賓(りょどうひん)
唐代(とうだい)の学者(がくしゃ)。夢(ゆめ)に自(みずか)らの生涯(しょうがい)とその空(むな)しさを見(み)て、目覚(めざ)めて出世(しゅっせ)を捨(す)て山(やま)に入(い)りました。鬼(おに)を断(た)つ剣(けん)を携(たずさ)える。最(もっと)も愛(あい)される仙(せん)の一人(ひとり)——多(おお)くの流派(りゅうは)が彼(かれ)に遡(さかのぼ)ります。
李鉄拐(りてっかい)
「鉄(てつ)の杖(つえ)の李(り)」。その物語(ものがたり)は奇異(きい)。星界(せいかい)の旅(たび)に魂(たましい)が肉体(にくたい)を離(はな)れ、伴侶(はんりょ)が早(はや)きに肉体(にくたい)を焼(や)いてしまった。戻(もど)った魂(たましい)は、ちょうど死(し)んだ乞食(こじき)の体(からだ)に入(い)らねばならなかった。以来(いらい)、杖(つえ)と瓢箪(ひょうたん)を持(も)つ老(お)いた乞食(こじき)の姿(すがた)を持(も)つが、内(うち)には高(たか)き仙(せん)でございます。
張果老(ちょうかろう)
老翁(ろうおう)で、しばしば驢馬(ろば)に逆向(さかむ)きに乗(の)って現(あらわ)れます。必要(ひつよう)に応(おう)じて驢馬(ろば)は一枚(いちまい)の紙(かみ)に変(か)わり、懐(ふところ)にしまわれる。逆理(ぎゃくり)を象徴(しょうちょう)します——老(お)いたものが若(わか)く、進(すす)むものが退(しりぞ)き得(え)る。
韓湘子(かんしょうし)
笛(ふえ)の名手(めいしゅ)。その奏(かな)でと花(はな)の開花(かいか)が結(むす)びつけられます。瞬時(しゅんじ)に草木(くさき)を生(お)い育(そだ)て、酒(さけ)を踊(おど)らせる。一(ひと)群(むれ)の若(わか)き相(そう)。
曹国舅(そうこくきゅう)
唯一(ゆいいつ)の貴(き)家(か)の者(もの)。宮廷(きゅうてい)における身分(みぶん)を示(しめ)す木札(きさつ)を携(たずさ)えていた。高(たか)き身分(みぶん)の出(で)も、すべてを後(あと)に残(のこ)せるならば道(みち)を歩(あゆ)めるという可能性(かのうせい)を象徴(しょうちょう)します。
何仙姑(かせんこ)
唯一(ゆいいつ)の女性(じょせい)の仙(せん)。手(て)に蓮(はす)を持(も)ちます。儀礼化(ぎれいか)された真珠(しんじゅ)貝(かい)摂取(せっしゅ)と桃(もも)の食事(しょくじ)によって不死(ふし)となりました。一(ひと)群(むれ)における女性的(じょせいてき)質(しつ)ゆえに特(とく)に崇敬(すうけい)される——道(みち)は女性(じょせい)にも開(ひら)かれているとの覚醒(かくせい)。
藍采和(らんさいか)
姿(すがた)の中(なか)で最(もっと)も両性(りょうせい)的(てき)——少年(しょうねん)あるいは少女(しょうじょ)として描(えが)かれる。花籠(はなかご)を担(かつ)いで町(まち)の路地(ろじ)を歩(あゆ)み、歌(うた)を唱(うた)い続(つづ)ける乞食(こじき)。仙(せん)の中(なか)で最(もっと)も自由(じゆう)——いかなる性(せい)、いかなる慣習(かんしゅう)にも縛(しば)られぬ。
八仙(はっせん)は神々(かみがみ)のチームではない。不死(ふし)へ至(いた)る八(はち)つの異(こと)なる道(みち)である · そして示(しめ)されているのは明(あき)らかな伝言(でんごん)——道(みち)は一(ひと)つではない。人(ひと)それぞれに自(みずか)らの道(みち)がある。
なぜ八(はち)か
八(はち)の数(かず)は偶然(ぐうぜん)ではない。道教(どうきょう)の宇宙(うちゅう)においては、八(はち)が易経(えききょう)の八卦(はっけ)に対応(たいおう)します。各方位(かくほうい)に一卦(いっか)、各卦(かくか)に一(ひと)つの質(しつ)。八仙(はっせん)はゆえに人間(にんげん)的(てき)可能性(かのうせい)の全(ぜん)色相(しきそう)を表(あら)わします。男(おとこ)も女(おんな)も、若(わか)きも老(お)いたるも、貴(とうと)きも貧(まず)しきも、武(ぶ)に長(た)けたるも芸(げい)に秀(ひい)でたるも——いずれの役(やく)においても道(みち)は可能(かのう)である。
実践(じっせん)における意味(いみ)
現代(げんだい)の実践者(じっせんしゃ)にとって八仙(はっせん)は幾(いく)つかの理由(りゆう)で重要(じゅうよう)です。
完璧(かんぺき)主義(しゅぎ)を強(し)いぬ模範(もはん)である。それぞれに弱(よわ)さと特異(とくい)があった。李鉄拐(りてっかい)は外見(がいけん)は乞食(こじき)。呂洞賓(りょどうひん)は挫折(ざせつ)した学者(がくしゃ)。張果老(ちょうかろう)は逆向(さかむ)きに乗(の)る。伝言(でんごん)は——道(みち)を歩(あゆ)むに完璧(かんぺき)である必要(ひつよう)はない。ただ歩(あゆ)めばよい。
具体的(ぐたいてき)である。抽象的(ちゅうしょうてき)な神(かみ)とは異(こと)なり、八仙(はっせん)は人格(じんかく)です。語(かた)りかけられる。助言(じょげん)を求(もと)められる。特定(とくてい)の局面(きょくめん)のために特定(とくてい)の仙(せん)を伴(ともな)い手(て)として選(えら)べる。
群(ぐん)を成(な)す。八仙(はっせん)が単独(たんどく)で現(あらわ)れることは稀(まれ)。霊性(れいせい)業(わざ)もまた群(む)れの性質(せいしつ)を持(も)つことを示(しめ)す。誰(だれ)も一人(ひとり)で業(わざ)を為(な)すのではない。
八仙(はっせん)と現代(げんだい)実践(じっせん)
中国(ちゅうごく)の道観(どうかん)では今(いま)もなお八仙(はっせん)が祀(まつ)られます。最重要(さいじゅうよう)な一(ひと)つが西安(せいあん)の八仙宮(はっせんきゅう)。香(こう)で敬(うやま)われ、巡礼者(じゅんれいしゃ)が特定(とくてい)の生(いのち)の局面(きょくめん)で支(ささ)えを乞(こ)います。
西洋(せいよう)の実践者(じっせんしゃ)にとっても八仙(はっせん)は接近(せっきん)しやすい——具体的(ぐたいてき)で、像(ぞう)を持(も)ち、人格的(じんかくてき)です。瞑想(めいそう)の中(なか)で内(うち)にいずれかの仙(せん)に向(む)き直(なお)し、像(ぞう)や名(な)を祭壇(さいだん)に置(お)き、その物語(ものがたり)を繰(く)り返(かえ)し読(よ)むことで業(わざ)を共(とも)にできます。
Shamanic Worlds における八仙(はっせん)
当方(とうほう)の道教(どうきょう)業(わざ)において八仙(はっせん)は霊的(れいてき)対話(たいわ)の相手(あいて)として紹介(しょうかい)されます。特定(とくてい)の生(いのち)の局面(きょくめん)——困難(こんなん)な決断(けつだん)、新(あら)たな始(はじ)まり、古(ふる)き自己(じこ)の同一性(どういつせい)の手放(てばな)し——にとって、八人(はちにん)のいずれかが助(たす)けの伴(ともな)い手(て)となります。
不死(ふし)に出会(であ)う
八仙(はっせん)との邂逅(かいこう)は狼(おおかみ)シャーマンの奥儀(おうぎ)の道(みち)の道教(どうきょう)実践(じっせん)の中(なか)で起(お)こります。