エジプトのシャーマニズム2026年4月20日 · 8分(ふん)で読(よ)めます

ラー ·
浄化(じょうか)の炎(ほのお)

エジプトの人々(ひとびと)は太陽(たいよう)を単(たん)なる天体(てんたい)とは呼(よ)ばず、ラーと呼(よ)びました——輝(かがや)くのみならず浄(きよ)め、温(あたた)めるのみならず貫(つらぬ)く力(ちから)。

ラー · 浄化(じょうか)の太陽(たいよう)の炎(ほのお)

なぜ多(おお)くの文化(ぶんか)で「火(ひ)は浄(きよ)める」と申(もう)すのでしょうか。火(ひ)による浄化(じょうか)とは一体(いったい)何(なに)を意味(いみ)するのか。何(なに)かが焼(や)け尽(つ)きるのか。何(なに)かが溶(と)け去(さ)るのか。あるいは、この一(ひと)つの像(ぞう)でしか言(い)い表(あら)わせぬ別(べつ)の何(なに)かが起(お)きているのか。

エジプトの伝統(でんとう)においてラーはこの原理(げんり)を理解(りかい)するための中心的(ちゅうしんてき)な姿(すがた)です。数多(かずおお)き炎(ほのお)の一(ひと)つではない。彼(かれ)はその炎(ほのお)である——秩序(ちつじょ)を生(う)む宇宙(うちゅう)の光(ひかり)。エジプト人(じん)はこの炎(ほのお)がいかに働(はたら)くかを実(じつ)に精緻(せいち)に描(えが)きました。

一言(ひとこと)申(もう)し添(そ)えますと、エジプトのネテルは西洋(せいよう)の一神教的(いっしんきょうてき)な意味(いみ)での「神(かみ)」ではなく、自然力(しぜんりょく)、宇宙(うちゅう)の原理(げんり)が姿(すがた)を取(と)ったものでございます。ラーは生(い)ける実体(じったい)としての太陽(たいよう)原理(げんり)であり、雲(くも)に座(すわ)る髭(ひげ)の老人(ろうじん)ではございません。

ラーとは何者(なにもの)か

問(と)いは単純(たんじゅん)ですが、答(こた)えはそうではありません。エジプト宗教史(しゅうきょうし)三千年(さんぜんねん)の流(なが)れの中(なか)で、ラーは様々(さまざま)な姿(すがた)と結(むす)びつきにおいて現(あらわ)れました。

  • 文書(ぶんしょ)時代(じだい)の初期(しょき) · 正午(しょうご)の姿(すがた)のラー · 純粋(じゅんすい)な力(ちから)、輝(かがや)き、毀(こわ)れぬもの
  • アトゥムとの結(むす)びつき · アトゥム・ラー · 原初(げんしょ)の水(みず)ヌンより立(た)ち上(のぼ)った創造(そうぞう)のネテル
  • のちにアムンとの統合(とうごう) · アムン・ラー · 「隠(かく)れたラー」 · 夜(よる)にも在(あ)る太陽(たいよう)
  • 朝(あさ) · ケプリ · 太陽(たいよう)を転(ころ)がす甲虫(かぶとむし) · 若(わか)き力(ちから)
  • 夕(ゆう) · アトゥム · 二重冠(にじゅうかん)の老翁(ろうおう) · 夜(よる)に入(はい)るために集(あつ)まる力(ちから)

ラーは単(たん)なる「太陽神(たいようしん)」ではない。朝(あさ)から正午(しょうご)、夕(ゆう)、そして夜(よる)を通(とお)す全(ぜん)過程(かてい)です。人間(にんげん)的(てき)・宇宙的(うちゅうてき)に光(ひかり)を成(な)すものでございます。

夜(よる)の十二時間(じゅうにじかん)

ここが興(きょう)味深(ぶか)く——ここにラー神学(しんがく)のシャーマニズム的(てき)中核(ちゅうかく)が見(み)えてまいります。エジプト人(じん)は太陽(たいよう)の昼(ひる)の道(みち)のみならず、その夜(よる)の旅(たび)をも並外(なみはず)れた精緻(せいち)さで描(えが)きました。

『ピラミッド・テキスト』、後(のち)に『アムドゥアト』(「冥界(めいかい)にあるものの書(しょ)」)において、ラーの夜(よる)の十二時間(じゅうにじかん)の旅(たび)が描(えが)かれます。一時(いちじ)毎(ごと)に異(こと)なる存在(そんざい)に出会(であ)い、毎時(まいじ)異(こと)なる出来事(できごと)が起(お)き、毎時(まいじ)危(あや)うさに晒(さら)される——冥界(めいかい)は親(した)しき場(ば)ではないからです。

最大(さいだい)の敵(てき)はアポピス(あるいはアペプ)。夜(よる)の冥界(めいかい)に待(ま)ち構(かま)える巨大(きょだい)な蛇(へび)で、ラーを呑(の)み込(こ)もうとします。毎夜(まいよ)ラーは蛇(へび)を倒(たお)し、毎夜(まいよ)蛇(へび)は戻(もど)ってまいります。これは力(ちから)の不足(ふそく)ではなく、世界(せかい)の構造(こうぞう)です。光(ひかり)は混沌(こんとん)に対(たい)し、毎夜(まいよ)新(あら)たに立(た)ち向(む)かわねばならぬ。

ラーは素朴(そぼく)な意味(いみ)での「善(よ)きネテル」ではない。世界(せかい)を混沌(こんとん)に明(あ)け渡(わた)すまいと拒(こば)む力(ちから)である——毎日(まいにち)新(あら)たに、毎夜(まいよ)新(あら)たに。彼(かれ)の炎(ほのお)は状態(じょうたい)としての悟(さと)りではない。実践(じっせん)としての悟(さと)りなのである。
—— エーリック・ホルヌング『古代(こだい)エジプトの神(かみ)概念(がいねん)』に拠(よ)る

なぜ炎(ほのお)は浄(きよ)めるのか

「浄化(じょうか)の炎(ほのお)」の像(ぞう)がより具体的(ぐたいてき)に見(み)えてまいります。エジプトの観念(かんねん)では、ラーを通(とお)して起(お)きることは他(ほか)のどの元素(げんそ)にも為(な)し得(え)ぬことです。その力(ちから)は熱(ねつ)ではない。明(あき)らかにする力(ちから)でございます。

ラーは物事(ものごと)を可視(かし)化(か)する——これが第一(だいいち)の本性(ほんしょう)。闇(やみ)に在(あ)ったものが光(ひかり)に出(で)る。隠(かく)されていたものが見(み)える。これは心地(ここち)よくはございません——シャーマニズム実践(じっせん)においてラー業(わざ)はしばしば最(もっと)も居心地(いごこち)の悪(わる)い業(わざ)です。避(さ)けてきたことを示(しめ)すからです。

ラーは分(わ)ける——これが第二(だいに)の本性(ほんしょう)。共(とも)に在(あ)るべきでないのに共(とも)に在(あ)ったものが、その炎(ほのお)で解(と)き放(はな)たれます。誤(あやま)った絆(きずな)、恐(おそ)れから選(えら)んだ契約(けいやく)、忘(わす)れられた約束(やくそく)——ラーの光(ひかり)は切(き)る。残酷(ざんこく)ではなく、決然(けつぜん)と。

ラーは整(ととの)える——これが第三(だいさん)の本性(ほんしょう)。彼(かれ)の浄化(じょうか)を経(へ)て誤(あやま)れるものを切(き)り落(お)とした者(もの)は、空間(くうかん)に立(た)つ姿(すがた)が変(か)わる。より真実(しんじつ)に。より澄(す)んで。浄化(じょうか)の結末(けつまつ)は空(から)ではなく、正(ただ)しき方(む)きでございます。

マアト · 炎(ほのお)の背後(はいご)の秩序(ちつじょ)

ラーが実(じつ)に行使(こうし)するのは自身(じしん)ではなく、マアトでございます——宇宙(うちゅう)の秩序(ちつじょ)、真実性(しんじつせい)、正(ただ)しさ。マアトは頭(あたま)に駝鳥(だちょう)の羽根(はね)を載(の)せたネテレトの姿(すがた)で描(えが)かれます。死者(ししゃ)の審判(しんぱん)場面(ばめん)では、亡(な)き者(もの)の心臓(しんぞう)がこの羽根(はね)に対(たい)して秤量(ひょうりょう)されます。羽根(はね)より重(おも)ければ——語(かた)られざる嘘(うそ)と贖(あがな)われざる行(おこな)いで重(おも)ければ——魂(たましい)は先(さき)へ進(すす)めません。

ラーとマアトは互(たが)いに属(ぞく)します。マアトなき太陽(たいよう)の炎(ほのお)は破壊(はかい)。ラーの炎(ほのお)なきマアトは執行(しっこう)なき理論(りろん)。両者(りょうしゃ)合(あ)わさってこそ、エジプトのシャーマンが求(もと)めたもの——残酷(ざんこく)にならずして真実(しんじつ)を強(し)いる力(ちから)——となるのです。

実践(じっせん) · シャーマニズム業(わざ)におけるラー

太陽(たいよう)呼吸(こきゅう)

入(い)り口(ぐち)としての地に足(あし)を着(つ)けた実践(じっせん)。朝(あさ)の日の出(ひので)の時刻(じこく)に(あるいは可能(かのう)でなければ東(ひがし)に向(む)けた内的(ないてき)方向(ほうこう)で)、ラーの炎(ほのお)を招(まね)く一連(いちれん)の呼吸(こきゅう)を行(おこな)います。観念(かんねん)としてではなく、身体(からだ)で体験(たいけん)される原理(げんり)として。

浄化(じょうか)の旅(たび)

より深(ふか)い業(わざ)においては、アムドゥアトの伝統(でんとう)に倣(なら)った旅(たび)を行(おこな)います。文献(ぶんけん)の朗読(ろうどく)ではなく、太鼓(たいこ)を伴(ともな)う案内(あんない)つきのシャーマニズム的(てき)な旅(たび)として。十二時間(じゅうにじかん)を内的(ないてき)に歩(あゆ)む。要求(ようきゅう)の高(たか)い業(わざ)であり、儀礼化(ぎれいか)された枠(わく)の中(なか)でしか行(おこな)えません。実践(じっせん)初週(しょしゅう)に行(おこな)うものではない。

整(ととの)え

ラー業(わざ)の終(お)わりには整(ととの)えが立(た)ちます。何(なに)が見(み)えたか。何(なに)が切(き)り落(お)とされたか。今(いま)、この人(ひと)はその生(い)においてどう立(た)つか。整(ととの)えは分析(ぶんせき)ではなく、決断(けつだん)でございます。ラーは誰(だれ)をも変(か)えずにおかれません。

留意(りゅうい)すべきこと

ラー業(わざ)は強(つよ)く、無害(むがい)ではございません。本気(ほんき)で始(はじ)める方(かた)は次(つぎ)をご承知(しょうち)おきください。

  • 炎(ほのお)は予定(よてい)通(どお)りには示(しめ)さぬ。然(しか)るべきと判(はん)じたものを示(しめ)す——多(おお)くは予期(よき)せざるもの
  • 深(ふか)いラー業(わざ)の後(あと)の数週間(すうしゅうかん)に、見(み)えたものを試(ため)す状況(じょうきょう)がしばしば現(あらわ)れる。これも浄化(じょうか)の一部(いちぶ)
  • すべての人(ひと)にラー業(わざ)が必要(ひつよう)というわけではない。既(すで)に多(おお)くの厳(きび)しさを経(へ)ている方(かた)には、イシスやハトホルの柔(やわ)らかき業(わざ)の方(ほう)が適(てき)します
  • この実践(じっせん)はシャーマニズム的(てき)・儀礼的(ぎれいてき)な枠(わく)に属(ぞく)します。その枠(わく)なくしては浅(あさ)きものとなるか、不安定(ふあんてい)化(か)します

なぜ今(いま)これが重要(じゅうよう)か

多(おお)くが曖昧(あいまい)化(か)される時代(じだい)、真実性(しんじつせい)が安(やす)らぎと取(と)り替(か)えられがちな時代(じだい)、傷(きず)を恐(おそ)れて葛藤(かっとう)が回避(かいひ)される時代(じだい)——そのような時代(じだい)においてラーの伝統(でんとう)は稀(まれ)になったものを差(さ)し出(だ)します。傷(きず)つけたがらぬ炎(ほのお)、しかし沈黙(ちんもく)もせぬ炎(ほのお)。固(かた)くなく、しかし譲(ゆず)らぬ明(あき)らかさ。

これがエジプトのシャーマニズムが今(いま)関連性(かんれんせい)を持(も)つ真(まこと)の理由(りゆう)です。異国情緒(いこくじょうちょ)ゆえでも、ピラミッドの神秘(しんぴ)ゆえでもなく、他(ほか)に見出(みいだ)し難(がた)い質(しつ)——真理(しんり)を愛(あい)する優(やさ)しさ——を担(にな)っているからです。

実践(じっせん)としてのエジプトのシャーマニズム

ラー、ホルス、イシス、トート——エジプトのネテルは狼(おおかみ)シャーマンの奥儀(おうぎ)の道(みち)において独自(どくじ)の実践(じっせん)の流(なが)れとして担(にな)われます。浄化(じょうか)の原理(げんり)を自(みずか)らの実践(じっせん)に根(ね)づかせたい方(かた)へ。

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マーク・ホサック博士(はかせ)

東(ひがし)アジア美術史(びじゅつし) 博士(はかせ) · 狼(おおかみ)シャーマン · エジプト象徴学(しょうちょうがく)の研究者(けんきゅうしゃ)

京都大学(きょうとだいがく)にて三年(さんねん)の研究 · 四国八十八ヶ所(しこくはちじゅうはちかしょ)巡礼(じゅんれい)を徒歩(とほ)にて · 三十年(さんじゅうねん)以上(いじょう)にわたる狼(おおかみ)シャーマニズム、ヴードゥー、エジプトと日本のシャーマニズムの実践(じっせん)。シャーマニズムの系譜(けいふ)におけるエジプトのネテル(自然力(しぜんりょく))との関(かか)わり。

アイリーン・ヴィースマン

歴史学修士(れきしがくしゅうし) · 博士課程(はかせかてい) · シャーマン · メンター

儀礼(ぎれい)と象徴学(しょうちょうがく)を研究主題(けんきゅうしゅだい)とする宗教史家(しゅうきょうしか) · 繊細(せんさい)な感受性(かんじゅせい)を持(も)つ方々(かたがた)のためのメンター。